ミチカの引越し人生〜旅するようにおひっこし

特技は物件探し!18回の引越し経験者が綴るリアル引越しライフ

インタビュー「震災と移住」1~仙台で被災、沖縄移住を考えるまで

   

 

移住」という言葉にどんなイメージを持っているだろうか?
ある人にとっては苦渋の決断、またある人にとっては念願かもしれない。
いずれにしても相当な「覚悟」が必要なものだと思うし、それが足りなくて失敗した例も知っている。

東日本大震災で家が半壊し、沖縄県の支援によって仙台から那覇に移住した友人がいる。
名前はマチ子さん。
震災時はリラクゼーション関係の仕事をしていた。

被災から移住に至るまでのプロセスとは?
具体的にどのような支援が受けられたのか?
沖縄への遠距離引越しはどのようなものであったのか?
また、移住後の生活は?

今の(そしてこれからの)日本には参考にしたい方が沢山いらっしゃると思い、インタビューさせてもらった。
被災後のサバイバル生活や沖縄移住特有の事情など、学べることも多いと思う。

貴重な話をたくさん聞くことができたので、全三回に渡ってお送りする。

 

仙台での被災~半壊の家とサバイバル生活

マチ子さんは震災前、夫婦二人と猫五匹とで仙台市青葉区の木造一軒屋に住んでいた。
築40年と年季の入った物件だが、二階建てで広い庭付き。階段箪笥や卓袱台、火鉢のよく似合うレトロな家だった。
ちなみに大家の家が同じ敷地内にある。

2011年3月11日、青葉区の本震震度は6弱であった。

 

―あの地震が起きた時、家はどうなった?

大黒柱に大きなヒビが入って、家全体が大きく歪んだ。
玄関の扉や窓は開け閉めができなくなったし、家の中も本棚とかあらゆる家具が倒れて、もうめちゃくちゃ。
中ではとても生活し続けられる状況じゃなかったから、貴重品だけ持ち出して、猫たちをケージに入れて、とりあえずみんなで車の中で寝泊まりしたよ。
幸い庭が広かったからそこにタープを張って、生活と作業のスペースを設けることができた。

―そういえばご主人の趣味はキャンプだったね。キャンプ道具は役立ちそう。

うん。道具を一式持っているだけでキャンプには何年も行っていなかったけど、夫の趣味に初めて感謝した。
それにうちは古風な石油ストーブを利用していたでしょう?電気が使えなくても暖をとれたのは大きいと思う。上には鍋も載せられるから煮炊きが可能で、あらゆるライフラインが止まってしまった後でもうちは温かいご飯が食べられたから。

―それに火鉢も持っていたよね。あの古い家に似合う暖房を使っていたからこそ、不便な生活でも切り抜けられたように見える。一見便利なオール電化の家に住んでいたらそうはいかなかったね。

そう。冬の東北で停電したら命にかかわっちゃう。

―宮城はずっと地震が多かったけど、食料のストックはしていた?

うん。ただ災害に備えるというより、好きで沢山家に置いていたものが保存の効くものだった。乾物とか缶詰、粉ものとかね。
震災から三日間、庭でキャンプ暮らししていたけど、ナン焼いて食べたり、食事には困らなかった。
キャンプスキルと料理スキルは被災時のサバイバルスキルに直結すると思ったね。

―なるほど。ところで三日間キャンプ生活した後は仙台を離れたよね。どうやって決断した?

携帯電話はつながらないままだったんだけど、公衆電話まで歩いて行ってみたらちゃんと通話ができて、山形の実家と連絡をとることができたの。
食料にも燃料にもまだ余裕はあったけど、ラジオでは津波で海の方はもっと酷いって聞いていたし、復旧には長い時間がかかりそうでその後の展望がなかったから、しばらく実家に置いてもらうことにした。
ガソリンもギリギリだったんだけどね、もし途中で止まっちゃったら向こうから迎えにきてもらうことにして、とりあえず移動した。
ストーブとかは積んで行けないから、欲しい人にあげてきた。

―半壊した家はその後どうなった?大家はちゃんと対応してくれた?

その点は大丈夫だった。
11日間住んだけど3月の家賃はゼロにしてくれたし、もう取り壊すしかないから敷金を全額返してくれたの。

―それは大きいね。

うん、ふつうに退居していたら一円も返って来なかったと思う、猫がいたし。
敷金が全額戻ってきたおかげで、一ヵ月後に山形から仙台に戻った時の引越し代になった。
大家も不動産屋も心ある人たちで良かった。

―そうだね、敷金は次に住む人のための現状回復に充てるお金だからこの場合は返金が妥当だけど、出し渋る人もいるし、何だかんだ理由つけて減額しようとする大家も存在するからね。
被災した上に嫌な気持ちになることがなくて良かったよ。

 

山形への一時避難とその間にしたこと

―ところで、山形ではどんなふうに過ごしていた?

とりあえず安全な場所に来てほっとしたけど、居候だからね、仙台に戻ったら何をすべきかはずっと考えていたよ。
私は仕事もなくなっちゃったし。リラクゼーションは衣食住が満ち足りた余裕の上に成り立つものだから、仙台ではしばらくこの仕事は無理だろうと。

それにほっとしたのも束の間、すぐに原発事故のニュースが飛び込んできて、恐怖を感じた。
東電の対応は後手後手だし明らかに真実を隠蔽していたし、危険なのは福島だけじゃないように思えてきて。
本当に仙台に戻って大丈夫なのかも不安だったし、日本はどうなっちゃうんだろうと。

それもあって、山形では移住について調べ始めた。
家も職も失った人への支援をしている自治体のホームページを見比べたり、必要なものは何かチェックしたり。
ただ、この時はまだ本格的に検討していたわけではなかった。やっぱり仕事が決まっていないのに移住だけしちゃうのは問題があると思ったし。

でも結果的に、この時に収集していた情報が後ですごく役に立った。

―山形に避難していた一ヵ月で色々考えて選択肢を自分の中で準備しておいたのが、後の決断と行動を大いに助けたんだね。移住するって聞いた時は急に思えたけど、決して見切り発車ではなかったし、むしろ慎重に検討していたのが分かった。
ちなみにこの時点では移住先の候補にどこが挙がっていたの?

北海道、香川、沖縄あたりかな。

 

(ここからいかに沖縄移住が決まったのか?
また東北から沖縄への引越しにいくらかかったのか?

次回につづきます。)

 

 

 - 移住するということ

メトホルミン